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1990/09/14 ウィーンから列車でプラハへ。 まだドイツ統一前でしたので、一応東欧に入るということで、ドキドキワクワクし、緊張もしていました。 夕方プラハ本駅に到着。プラハまでは普通に入国。夕方到着。 同じ列車に乗り合わせた方と一緒に宿探し。 全然みつからないし、夜は更けてくるわであせりました。バーツラフ広場通り近くのACRONでやっと荷を解くことが出来ました。少々お高かかったけれど、予定通りにはいかないこともありますね。 |
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地下鉄の乗車券だったと思いますが・・。 | |
中央にブルタバ川、右にプラハ本駅があります。左にプラハ城があります。 充分歩いていける距離です。ホテルを出て旧市庁舎、カルレ橋からプラハ城まで歩きましたよ。 |
バーツラフ広場です。 突き当たりは国立博物館で手前はムーステク広場です。道路の幅は約60m。約750mの長さがあります。 ここは繁華街ですがチェコの歴史を刻んだ場所でもあります。1968年に始まった「プラハの春」、1989年の「ビロード革命」のそれぞれの舞台となりました。 |
バーツラフ広場、「プラハの春」慰霊の場 1968年、ソ連の戦車がこの広場に集まった市民を蹂躙し、86名の犠牲者が出たのだ。その死者を慰霊する場所で写真が置かレ、花、ロウソクの火がたくさん供えてあった。 |
警察署、死亡者を意味する人体形の張子のようなものがたてかけてありました。 | 市庁舎 | |
市民会館 バロック様式です。 |
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CEDOK(Cの上にダッシュ)チェドクは日本のJTBのようなところ、効率は悪くて、とてつもなく並ぶのだった。 | ||
旧市庁舎広場 | 旧市庁舎広場 ゴシック様式のティーン聖母教会 | |
旧市庁舎広場 ボヘミヤングラスのお店。 左の緑色の方が高価だった。 |
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旧市庁舎広場 「天文時計」、仕掛けで、毎時00分に、キリスト教の12市使徒が出てきます。 | ||
旧市庁舎広場 観光客用の馬車。 |
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旧市庁舎広場 「火薬搭」15世紀創建、城郭の門のひとつだったといわれる。1757年ロシア軍に包囲されたとき火薬庫として使われたことから火薬搭と呼ばれるようになった。 | ||
旧市庁舎広場 旧市庁舎 | カルレ橋入口のゴシック様式の門搭です。火薬搭に似ていますが別物です。橋の両側にあります。 |
チェコ最古のカルレ橋は全長520m、幅約10m。 カルレ橋を渡ってプラハ城に向かいます。 橋の両脇は、ミニ市場状態で、絵描きさん、楽器を弾く人、土産物を売る人、軍洋品を売る人、などなど。 子供で楽器を弾いて、お金をとる子もいました。 すでに、当時の東ドイツ軍、東ドイツ駐留ソ連軍の軍用品を売ってました。 統一で失業するため、現金を得ようということらしい。 |
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カルレ橋からブルタバ川。 |
カルレ橋のたもとからプラハ城。聖ヴィート教会の尖塔も見えています。 | 橋の上のプレイヤー。 | |
プラハ城の大統領官邸、旗があるときは執務中。 小高い丘の上に立つプラハ城は、世界で最も最大規模のお城.。共和国になってから博物館や、美術館等として開放しているのだ。 |
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カルレ橋の、両欄干には全部で30体の聖人像が立っています。 | る。 | |
丁度衛兵の交替時間。 |
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プラハ城 正門を通り抜けると聖ヴィート教会があり、ひときわ色がきれいなミュシャのステンドグラスがありました。撮影禁止で残念。 | ||
マラー・ストラナ広場近く、コスプレ? いやいや、観光客向けのデモです。 |
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聖ミクラーシュ教会 | 09/16プラハ本駅から東ベルリン経由で西ベルリンへ 時刻表どおり運行されないという洗礼を受ける。 乗車予定の8時台が突然運休、5時間も無駄にしたのだった。 |
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やっと乗れた車窓から | 東ドイツを通過中。荒廃した感じだった。 検札、入国などどうなのかとドキドキしていたが、え?と肩透かし。さっと見るだけ、荷物はどれか聞いただけだった。どうなってるんかなと不思議だった。 |
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同じコンパートメントの相客はソ連のパスポートをお持ちでした。あとでわかったが、西ベルリンへの買出し出張だったのだ。 も一人の同室者はユーゴの方で、私以外の4人の荷物チェックは、ひととおりのようであった。 |
ドレスデン通過中。不景気な暗い感じがした。 2003年のドレスデンはここ |
「壁」を、欠きそのカケラを売る人たちです。 ポーランド人は、カナヅチを有料で貸し出していました。今を生きなければならないのだ。商魂に感心しました。 カケラは、拾ったのと買ったのとあります。 |
手前が西側、後は東側。 手で握れないほどの太さの鉄筋が入ってましたよ |
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白く見える通路はいわゆる、無人地帯だったのだ。歩けるのは、警備兵だけだった。 | ティアガルテン駅は高架駅なので東ベルリンが見えます。荒れた感じです。 | |
Sバーンでティアガルテン駅まで行きビスマルク通りを戦勝記念塔まで行きます。そこから先は6/17通りといい、ブランデンブルグ門まで続きます。その先はウンターリンデン通りです。 この通りにづらーっと観光バスや乗用車がが並んでいた。 乗ってきた人はほとんどが東ベルリンの人たちで、西ベルリンで日用雑貨、清涼飲料水などを山ほど買っているのだった。 因みに、コーヒーはブランデンブルグ門のどちら側でも同じ値段だったし、両替しなくても西側のドイツマルクが通用したのだ。 マウスオンで戦勝記念塔 |
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ビスマルク通り 戦車が置いてありました。 |
国旗は東ドイツのもの。旧ドイツ帝国議会。 | |
シュプレー川、大聖堂がみえるところにありました。 歴史な年代が書いてありました。 1889-1890:ビスマルク時代終焉、100年前ですね 1989東独民主化、ベルリンの壁撤去-1990東西ドイツ統一 ということでしょうか。 |
シュプレー川沿いの家の壁は、火災の跡や、弾痕の跡がそのまま残る。 ここは、西側からは見えないのだ。 西からみえる側は、きれいに修復、整備されているように見えた。 2003年のここ |
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ベルリン大聖堂 黒く煤けている、右の塔はTV塔です。アレキサンダー広場の手前にあります。 2003年の大聖堂はここ |
赤いのはベルリン市庁舎、とんがり屋根は聖マリア教会 | |
アレキサンダー広場は出店がいっぱい、日本の家電品(AIWAが多かった)も売っていました。人出が凄かったです。 | フリードリッヒ通り、フリードリッヒ駅と郵便局がありました。 フリードリッヒ駅は、構内が東西に分かれ、乗り換えには国境検問を通らねばならなかった。 近郊電車は全てがこの駅で折り返し運転となり、国際列車のみがパスポートコントロールを行い、東西を直通した。 2003年の駅周辺はここ |
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ウンターリンデン通りです。 | クーダム通りからカイザーウィルヘルム教会 2003年の教会はここ |
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クーダム通り。 | 市街地に近い小さなテーゲル空港 東西冷戦時代はこの空港に物資を空輸したのだ。 パリまでエールフランスでいき、パリに3泊して、この旅は終わりました。 ベルリンに滞在中は、かつて、感じたことのない 感覚で、私まで熱にうかされたようになりました。 人々のエネルギーだったのでしょうかね。 きてよかったです。 |
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